《始動》 - ランと使命と世界一へ -
2015年になりました!
アケマシテ(。`・ω・´。)ゝオメデトウ♪m(。-ω-。)m
ということで、本当は淡路島一周120kmランを計画してて
そのまま初日の出を見る予定が、兵庫県三田市(下宿先)で見てきました。
2014年 ‐ランとの出会い‐
2014年9月に走り始めて、
11月には路線バスとランで4連戦だの、
そんな感じで2014年12月。多分、月間450km以上走りました。
楽しすぎて、楽しすぎて、意味わからんくらいしんどかったけど
スネまわりと、靭帯が逝きました チ──(´・д・`)──ン
秒殺で、ラン禁止令&完全休養令が出ました。
病院の先生は言いました。
「初心者のクセに、普通以上に走り過ぎだ、ばーかばーか」
別件で、内定先の社員さんは言いました。
「ちょwwおまっwwどこ目指してるの」
(゚Д゚;≡;゚Д゚) どこ!?
とはいえ、すごくこの言葉に幸せを感じてます。
やっとランで周りの人々の予想を超えつつある。
と思えるようになったから。
○ワクワクさせることが使命?
東北120kmを単独走破した後、
ある方のブログを通して、初めて目にして、
そして心の底から激震が走るほど胸打たれたメッセージ。
私は出光に入社し、今年で43年になります。この間、色々な事がありましたが、何と言っても大きな出来事は、2年前に東日本大震災に日本が見舞われたことです。私はそれまでずっと「人の命より大切なものはない」と考えてきました。しかし、東日本大震災は、その考えを大きく変えることになりました。我々は震災により、自然の残酷さを知ると同時に、人の命のはかなさや尊さ、また、日常の生活や家族のありがたさなど、多くのことに改めて気付かされました。同時に、震災時、避難の呼びかけを続けた町の職員や救助活動の中で津波にのまれていった警官や消防士の人たち、そして、家族や子供たちのために、自らの命を顧みず犠牲になった多くの人々の行動を知りました。人間には、時に自分の命より大事にしなければならないことがあるのです。それは「愛する人」や「家族」かもしれませんし、また、「志」や「信念」かもしれません。振り返れば、現在の我々の平和と繁栄は、そうした自分の命より大切なことのために生きた多くの人々の歴史に支えられているのだと思います。「使命」とは命を使うと書きますが、使命を果たすとは、「人間が限りある命の中で、命より大切なものに出会い、そのために生きる」ことなのではないかと思います。今日の感慨と初心を忘れず、自らの成長と「命より大切なものとの出会い」のために、これからの仕事に果敢に挑戦されんことを祈念して私のお祝いの言葉といたします。
この記事を読んだとき、
昨年、観た映画「永遠の0」を思い出しました。
使命を果たすとは、「人間が限りある命の中で、命より大切なものに出会い、そのために生きる」こと
自分たちが生きてる世の中、多くの先祖が創ってきた中で生きている、生かされていること。
偉大な先祖が、命を懸け自らの使命を果たし続けて、今がある。
日本は、世界唯一の核被爆国。戦争にも負けて、毎年台風は来るし、地震だって、津波だって来た。
でも使命を果たし続ける人がいるからこそ、乗り越えて行く。
すごい国に住んでいるだって。と同時に、冗談じゃなく
先人の全てに感謝を感じた。
自らの使命とは?
まだ、実際に使命までは言い切ることができるか分からないけれども
「常識を超えて、周りをワクワクさせること」
この一言に尽きると思う。
今までのスキーでの経験や理系×体育会×スポーツ推薦という経験からも
このひとことが近いはず。
○ ランで世界を目指す
いるまが目指す世界。
100kmや100マイル(160km)以上のウルトラマラソン&ULTRATRAIL
の領域において2020年までに
「世界に日本のIRUMAここにあり」
ということを知らしめにいきます。
そして、その先に
「世界一」
を取りにいきます。
具体的には、2015年シーズンから国内のレースポイントを獲得していき
2016年より世界11の国と地域で開催される
への参戦。
同時に、ギリシャ・スパルタ~アテネの245km(制限36時間)の
「スパルタスロン」
へ、参加基準を突破(ウルトラマラソン10時間以内)して日本人枠に食い込み出場(2016,17年 目標)すること
など、直近は海外を転戦できる選手を目指していきます。
「走り始めて4ヵ月で世界を目指す」
って、普通に考えたら分けわからん。
ウルトラマラソンの平均開始年齢は29歳。
100km以上のULTRATRAILの平均出場者年齢は40歳程度。
そうです。
凄まじく。
現時点、24歳なので若手!!笑
だから可能性は十分にあるし、まだまだマイナー競技。
自分の工夫次第で、未来はどんどん作っていける。
100km以上を走る中で必要なものは、走ってみてすんごい気づかされたけど
体力や走るスピード、筋力以上に
「メンタル」
が必要。
さて3ヵ月後には社会人1年目。
きっとわっけ分からんことだらけで激動なはず。
そうなれば、、、すごく良いタイミングなんですね。
徹底的に利用してやろうじゃないか!( ・ㅂ・)و )))
本業の会社勤めを全うしながらも、自分を律し続けて時間を生み出して競技パフォーマンスを向上する。
ランとは直接関係なくても、そこからの学びや気づきを最大限生かし、考え方を豊かにする。
東北120kmラン終盤《 ~峠越え、そして南三陸へ~ 》に気づかされた
自律 と 歩幅
逆にこれを徹底して磨いかなきゃ、勝てない。
ランばっかりやっててもだめ、でも練習をおろそかにもできない。
シンプルに言うと
「心 技 体」
これら全てを最高の場所へ。
じゃないと、世界一になりたいって夢は決して届かない。
○ランを通して描きたい世界と使命
日本の部活ってすんごい好き。
もともと中・高・大と体育会系の組織に属して、
その組織のために全てを全うする
「帰属意識」
っていうものを強く持っているから。
雰囲気も好きだったし、なんか目の色が好きだった。
大学院に行っても、こそーり高校時代から打ち込んでたスキーは続けてたから
個人的に空気感的なことは変わっていなかった。
でも大学卒で先に社会人になった大学同期の顔が思ったより晴れてない。
「学生は良いよね。社会人は、、」
この言葉、就職活動中は特に無数に浴びせられた言葉だった。
正直、聴いてておもろいか?と言われたら、そうではない。
まだきっといるまの考え方が、凄まじく先行き甘くて、
そして、楽観視してるかもだからかもしれないけれども、
「この目をもう一度変えたい」
なんだろう。昔の輝きを見たいだけなのかな。
みんなであーだこーだ、学校や組織のため
何より自分のために夢語る瞬間が楽しかっただけなのかな。
それを知り尽くしてるから、なんか寂しい。
別に仕事に限らず、何かに対して夢を描いているとき、
どんなに他がしんどくても、人は目がキラキラしてる。
だから、社会人になるタイミングだからこそ
「ランで世界を目指したい」
ただ、これだけ。
自身、ランに出会う前は悩んだりした。
「来年からどんな社会人なりたいんだ?」って。
でも走ってみて気づいた
「あ、別に頭キレっキレで仕事に没頭することだけが人生違うわ」
的な。╭( ・ㅂ・)و ̑̑ グッ !
思考回路がおかしいのでね。
「会社内で身体が一番キレている人になろう」
とか、言い出す。
ランを始めて、本当に人生がまた新たに《始動》したと本気で思う。
‐ちょっとでもやってみたいって思うことに全力を出すこと。
‐で、やってみた先に意味を考えてみたらすんごい繋がってること。
‐自分の弱さをぜーんぶみることが出来たこと。
‐1日1日が、昨日亡くなった方が生きたかった明日だってこと。
‐周りにどんなことでも感謝すること。お礼言うこと。(当たり前だけど)
などなど。
ランで世界を目指すこと、挑戦しがいがある。
人は何歳になったって成長をすることが出来る。
何歳になっても常識を超えうるだけの挑戦をし続け、
周りをワクワクさせ続けること。
どんな少数の人でも良いから
どんな小さなことでも良いから
周りの人をワクワクさせて、目を色を、虹色に描くこと
これが、自分の大切なかけがえのない人生をもってしてでも、やりたい
使命
なんじゃないかな、と。
そのためにランを通して、使命を果たす。
夢はwant
目標はmust
今は全然見えなくて、全然届かない夢でも、
全力でアクションを続けて、たまには全力でずっこけて、
これを無限に繰り返して、
夢を目標に落とし、そしてクリアにして行きながら
現実(いま)と夢を繋ぐ最高の瞬間に出会うために
これからも走りつづけよう。
いるま
路線バスとランで4連戦した話
2014年11月末。
バスと5.5kmをランで4連戦 勝負したお話し。
ひょんなきっかけ(=ノリ)から、
2014年9月にランを始めて約3ヶ月。
10月には、「東北を単独で120km」走ったり、
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その1 ~なぜ走ろうかと思ったか?~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために
11月に初めてハーフマラソンに挑戦してみたり
と、充実したラン生活。
もともと陸上部ではなくアルペンスキーをしていて、
ランはいわばスキーが速くなるための《手段》が、
それがいつの間にか《目的》に。
でも一か月に数百キロ走る中で、絶対にしんどくなるから
飲み会やお買いもの、食事へ行く
《移動手段》を《ラン》へ変換
して日々のトレーニング。
↓↓30km先の隣町へラーメン屋さんへ走って行ったときの図
今回は、新たなイベントとして
「路線バスとランで4連戦」
を企画しました。
○そもそもなんでやろうと思ったか?
11月くらいからの自分の中でもトレンド(注)での20kmランの時の一コマ。
※トレンド=自分がどうなるか予想できない状態を知りたい個人的流行。この時は20kmだっただけ。
ある日、夕方に20kmコースをぜぇはぁ(oノД`o) 走ってて気づいたこと。
「あれ?さっきこのバス見たよな?(。・・。)」
↓↓このバス。
帰宅ラッシュ真っ只中の時間帯。
乗客は多いし、そもそも少し遅れが生じてもおかしくない。
その時ふと思ったこと。
「ちょまて、、もしかしたら、
勝てるかもしれない。」
「人間がバスに勝ったら、これオモシロクナイ???」
実はちょうどこの時期(11月末)は、新たな刺激的ランネタを欲していた時。
9月は大阪環状線/山手線ぐるっと一周ランしたし
10月は120km単独ランしたし
11月は、、、ナニモナイヽ(;´Д`)ノ
もはや普通のランニングだけでは刺激なんて足りず、、、
ただ、バカみたいに走り続けて
「何も挑戦をしていない自分」
に、もはや焦りすら感じてた時。
研究室の同期にこのことを相談してみると、、、、
(ほぼ考えずに真剣に適当にマンガを読みながら)
「いけるんじゃね?(^Q^)/」
で、一緒に色々相手を分析したり、考える中でできたこと
- 学校から駅までいろんな路線出てるしー
‐ 時間帯によってはいろんな乗客がいるしー
- 一回こっきりのレースおもんないからー
「学校から駅(5.5km)までを4連戦してみよう」
という、感じ。
病院に行く人が多いだの、高校生多いだの、天気雨ならこの時間など、
色々考えた末の4連戦。
SNSにもさっさと、うpって、ケツを決めてこの企画が誕生する。
(=言い訳ができなくなる。)
○ルールと声援と
今回のこの企画、色んな時間帯で色んな路線(同じ出発地&目的地)のバスとの勝負。
ルールとして、
・信号は守る。歩行者の邪魔しない。歩道橋可。
・いるまはgoogle先生の言う、最短ルートOK(5.5km)
・バスの乗客が乗った瞬間スタート/最終の乗客が降りたらバスはゴール。
そこまでに、いるまがゴールしたら勝ち。
など。
まぁ、こうやって走っていると毎度恒例の黄色い大声援。
後輩Nは言いました。
「お言葉ですが、いるまさん、アホですか?\(^o^)/」
同期は言いました。
「あほやなー\(^o^)/あほやなー\(^o^)/」
変態なので、そんな言葉はすごい自分を後押ししてくれる意味と捉え
皆様の応援、しっかりと背にして頑張ってきまっす\(^o^)/
○で、やってみました
1769年にフランス陸軍の技術大尉ニコラ=ジョゼフ・キュニョーっていう
多分、偉い人が作った自動車から約250年。
(※自動車 - Wikipedia参照)
それから技術は革新的に進化をし、水素や電気で走行する車も。
時代が進む中、人々はあまり考えてこなかったかもしれない。
「人類はガソリンが燃料の相手に勝てるのか?」
昔、某番組でTOKIOがリレーで新幹線に勝負していましたが、
さほどの人類が真剣に勝負を仕掛けてこなかったでしょう。
なぜなら、たぶん無理だろうっていう勝手な常識があるから。
なぜなら、挑戦する人間すらあんまりいないから。
なぜなら、そもそも小学生の時から「人間の走力ってここらへんだお。」
って、習ってきたから。
※これ見て、トンボの異常な速さにビビった。シマウマと同レベルかよって。。
はい……
ハイ……
ということで。こんな感じに出走をして。
(こいつ、は?意味わからん恰好してるし、バス乗らんの?的な)
結果から申し上げて、2勝2敗ですたヽ( ̄▽ ̄)ノ。
↓↓成績表
普段のレース(とはいえ2つしか出たことない)とは違って
凄まじく頭を使いながら走る。
「ここの信号引っかかるんだったら、、、
次は、、えっと、こっち」
とか
「小学生通学ラッシュでここは歩道が混むから、、、
あ、でも、大の大人がいい年こいて
必死に走ってた応援してくれるかも、じゃあこっち」
って、10歳前後の子供たちにすんごい白い眼で見られたり。
2勝1敗で迎えた最終戦では、ラスボスの直通バスに敢え無くフルボッコにされたり
なかなか濃い4連戦でした。
○バスと4連戦してからの気づき
朝は7時に最高のパフォーマンスを出すために、
5時台からアップを始めて、ダウンが終わるころには8時を回ってる。
大体3時間くらいはこの”イベント”に消えていく。
今、大学院生として絶賛・修論に追われている(←やびゃい)立場で、
一見すると
「バカなことやってて、本末転倒じゃねぇの?」
と、誰しもがクソ思うはず。
でもやってから気づいたこと。
「走るために時間を作る」
確かにすんごい時間が無くなった。
パフォーマンスのために時間は睡眠や食事は削れないし、
で、ここで気づかされたリトルミイのことば。
なるほど、使い方次第なのか(’A`)y-~
っと。
そうなれば早い
「走るために動けばいいじゃないか」
って。
初戦はうまくいかなかったけど、
第2戦/第3戦と徐々に一日の使い方がスムーズに。
シンプルに《物事への時間への執着》が変わる。
考えが変わって、行動が変わる。
最初は勝手に自分で企画しておいたにも関わらず、
「結構、うん、しんどいよね。( -_-)」
と思った節も無かった訳ではないが、
挑戦していく中で、リトルミイにも助けられて気づいたこと。
しっかりと戦い抜いたこと。
4戦をして2勝2敗。引き分け。
「なんで5連戦にしなかった」
と、やり終わってから気づきましたが
まぁ、それは後日にとっておいて、
とりあえず
「人間とバスの走力は、ほぼ同じものだ」
ということを証明できたのではないかなっと。ええ。
その2日後に出場した人生2回目のハーフマラソンでは
300人規模の小さなレースでしたが
無事4位(?)でサブ1.5もクリアして、走力も成長したのかな?と。
そんなこんなで、勝手に対戦させてくださった
株式会社神姫バスに勝手に感謝を申し上げ、
勝手に色々写真使ってごめんなさいって申し上げ、
また、勝手に勝負させてくださいとお願いを申し上げ、
《路線バスとランで4連戦した話》
おしまい。
いるま
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その4 ~峠越え、そして南三陸へ~
《多くの気づきを得て石巻までの77kmを無事走りきる》
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その3 ~単独チャレンジだけど、一人じゃない~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために
激動の初日を終了し、海沿いを走っていた今までとはおさらばして
一気に山の中へ。
きっと山の中を走っていたのが全てだったんだろう。
「穂高岳は世界一の山。世界一になれ」
このことを真剣に考え始めるDay2となった。
○ロボット?そして100kmへ
ベッドで熟睡できたおかげか、
メンタル的にも復帰、身体の疲れも思いのほか抜けた。\(^o^)/
ただ、脚が動かない。(; ・`д・´)
マジで、右足と右手を同時に出して行進する小学生。
ロボットみたいな歩き方。
今まで小学生のころ、散々バカにしてきた方々、ごめんなさい。
心からお詫び申し上げry。
テーピングを、初日以上にガッチガチにして
初日のコト、そしてDay2のコースの注意点とか
地元の人であるホテルのおっちゃんにしっかり聞いて、
ホテルの朝食を食べていた、建設現場の社員の皆様の盛大な応援を背に
元気よくスタート(/・ω・)/
元気よくスタートしていったのに、
外出たら寒いこと。寒いこと。9℃。
寒暖差が大きな時期だけ会って、ウインドブレーカーを持ってきて本当に良かったと思った。
この日は、永遠と有名な北上川の横を北上。
初日の苦しさを突破したこと。
そして自分の限界をまた一つクリアしたこともあり、
ペースはある程度一定をキープ。
途中にしっかりと体内の調整をしながら
ごそごそと川沿いを登り続ける。
※塩飴はあんまり好きじゃない。(´・ω・)
Day2は、こんな標識を何度か目にした。
ここは海沿いから6kmの地点。
改めて、3年半前の震災のコトを考えさせられるシーンだった。
最初の10kmはペースがだいぶ順調
※とはいえ、8min/kmより少し速いくらい → 1時間で8km程度
そしてやってきました。
Day2 最初で最後の補給ポイント(; ・`д・´)
※ここから25kmはコンビニなし。
お菓子とか普段食べないのにね、不思議です、こんな時は。
このカムカムジンジャーエール。本当にすごいパワーでした。
ということで、ここからはさらに山沿いへ。
建物や家など一つもない本当に山奥を一人、一歩一歩走れる喜びを噛みしめながら。
走り続けて、、、
ついに、、
きました、、
……
100kmキターーーーー\(^o^)/ーーーーー!!!!!
長かったです。
途中本当に投げ出さなくて良かったと思った瞬間。
うれしすぎて、何度も山奥で叫んだ。
ようやくたどり着いた。
○時間が無い。峠との戦い。そして南三陸へ
100kmをついたかと思えば、ここからは時間との勝負が始まる。
まだ最大の難所。400mの標高差の峠がある。
とにかく限界までペースを速める。
当初の予定より、1時間程度遅れており
面会の時間も限られそうになってきた。
気づけば《南三陸まで》あと15km。
進む。ただひたすら。進む。
脚はとうに限界なんて超え、
気持ちだけで早歩きより少し速いペースを維持するのがやっと。
でも気持ちは初日とは違い決して折れなかった。
最後の峠に差し掛かった時、
率直に思ってることを最後、見えるところに自分で書いた。
100km超えたあたりから、投げ続けた言葉。
《やりきれ》
と。
ここからは、一番の難所の山登りの区間。あと10km。
ただ、思ったより登りはきつくなかった。
きついと感じなかったのかな?
一番、気持ちを入れていったシーンだからかな?
登りが登りと感じなかった。
一歩一歩一定のペースで。
そしてついに、、、、峠の山頂まで来て、、、
南三陸 キタ――――\(^o^)/ーーーーー!!
ここまで115km。
もう、長いんだかなんなんだか。笑
それまでの最長不倒距離=45kmの2.5倍。もう分からんww
何度も何度も何度×∞
「2度と走らねぇぞ、こんな距離、ちくしょう(; ・`д・´)」
とこの115km近くは思ってきた。
もう一度言う、
ここまでの115kmを走るまでは、2度と走らねぇと。
でもこの峠を登ってから、その感覚が狂ってきた。
……
……
「さ、100km以上走れちゃったから
次はどうする?どこ行く(; ・`д・´)」
人間って面白い。
こんなに苦しくて、何度もメンタル折れそうになっても
結局、次の”刺激”を求めて次へのコトを考え始める。
《基準》が変わると《思考》が変わる。
そして
《思考》が変わると新たな《基準》が生まれる。
下りも順調に、そして峠を越えてやっと見えてきた。
お久しぶりです!太 平 洋!!\(^o^)/
案外あっさり峠が最大の難所を通過出来ちゃった(∩´∀`)∩
○南三陸への目的、そしてゴール
南三陸へ行くキッカケとなったもの
この仕事に会えて、よかった。「南三陸で働く」編 フル 【リクナビNEXT】 - YouTube
「この地(=南三陸町)で元気づけられた」
という言葉の意味を知りに。
被災地で人を勇気づける、というより勇気づけられた。
ということを直接会って、聴きに行く120kmの旅路。
ということで到着しました!\(^o^)/
がっ、ここまで予定時間を大幅に超え(2度目)
10分しか話ができないっ( ;∀;)
ただ、ホテルからの南三陸の海を見た時
1分の動画で斎藤さんが伝えたいことの全てが分かった。
南三陸の伝えたい風景、
そして、被災地の方々の前向きな姿勢
これが全てだと思う。
せっかく(2日前の突然の電話で)アポ合わせてくれたのにすみません!!!泣
とはいえ、ホテルの皆様の温かいお出迎え
そして、頂戴したソフトクリームの美味さに、
ええ、もう。言葉が出ません( ;∀;)
短い時間でも、南三陸のすばらしさを教えていただいた。
そして、ひとめぼれだった経緯
また思い描く想い。
2ヵ月経ってもしっかりと覚えている。
次は、ゆっくりお会いしに行きます!!(走らずに)
10分の滞在でホテルを後にし、そして残り3kmの道を進む。
そして残り10分でもうすぐゴールの南三陸「志津川駅」のバス停へ。
つ、、い、、、た?(。´・ω・)?
あれ?(。´・ω・)?
ナニモナイ、、、、(。´・ω・)?
当初予定の場所にバス停が無い( ;∀;)
……
……
はいっ?!( ;∀;)
そっこー地元の人(おじいちゃん)に聞く。
「あのー?バス停は、、、?」
「あー、津波で流されたから
ここからあと1km先だよ\(^o^)/」
……
……
オワタ\(^o^)/
となるわけにもいかず。
≒関西への飛行機間に合わず、スペイン旅行行けなくなる。
ええ、猛烈に急ぎますとも (; ・`д・´)
ここでも出るものですね。
それまでのペースを凌駕するスピードで。
ついに、、
……
いるまの121kmの挑戦が終わった。
バスが発車する3分前に着いた。
相変わらずぎりぎりを生きてるだけありますね。
最後バス停に着いた瞬間、
あまりの必死な顔に、そこにいた皆様どころか自分自身の
「感動」も無く( ;∀;)
ただただ
間に合った(; ・`д・´)
の感情のみ。
周りの人はぎょっとしてくれたけど
事情を説明すると、本当にお疲れ様!!と
あめちゃんくれました( ;∀;)
○「歩幅」≒120kmを走り続けて気づいたこと
Day1~2
time:21時間19分07秒
みたいに、基準が無いから
速いんだか、遅いんだか、まったくわからない(´・ω・)
ただ、走り始めて1ヵ月での120km走破。
最初は5km走るのも嫌だったし、すぐに足の裏痛くなるし。
でもハードル下げまくって、モチベーションを維持して
コーチなんていないから、うまいかないことだらけ。
時には何が問題か分からないから、
世界一やさしい問題解決の授業―自分で考え、行動する力が身につく
- 作者: 渡辺健介,matsu(マツモト ナオコ)
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こういうやつ読んで
今自分に何が足りてないのか?分解して考えたり
人としてアタリマエのことは何か?
松下幸之助さんの教えも受けたりした。
自分の《未知の道》
これを現実にするために、走る以外の部分で多くのことを考えた。
それが実を結び、
夢が夢じゃないこと。
そして現実と夢を繋ぐこと。
この2つを証明することができた。
☆自分と向かい続ける
120km走る中、自分自身とずっと向き合い続けた。
その中で
《今までの自分では、超えることのできない120km》
ということに気づいた。
就職活動や色んなものを通して、いつの間にか
「個の力を強くすることが全て」
と勘違いしてる時があった。
人と歩幅を合わせに行こうとせず、
自分の力を過信して、人とやり取りしてた。
上手くいかなくなると、自分で全部やればええやん
というような手段をとり、そして周りにいる人に当たっていた時期もあった。
上手くいくときも少しはあったけど、結果的に人が離れていくことも多くあった。
それでは「自律」が足りない。
ただそれでは上手くいかない。
時には人に頼り、時には協力を頼み。
これが必要だと。
今回の120kmの旅路で気づいた。
単独のチャレンジとはいえ、
家族や仲間をはじめ支えてくれた人がいる
出会ってくれた人がいる
補給ポイントでエネルギーの源になるものを売ってくれる人がいる
そしてそれを作ってくれる人がいる
テーピングを開発してくれた人、ホテルのおっちゃん、
本当にたくさんの人がいて
今回のチャレンジを達成することが出来たのは間違いない。
一人ではないんだと。
一人でのチャレンジではない以上、常に
「相手の歩幅」というものをしっかりと考え、
「自律」を目指した上で、人との協力関係(≒相互依存)
を構築することを目指す。これが全て。
これらに気づいた時、あとは最大限相手をリスペクトして協力をお願いして、
夢に向かって、自分のことを信じて、突き進む。
《東北120km単独ラン》
という「夢」に向かって、
「変わらない(=夢)ために、
変わる(=自分自身の姿勢)」
そうすることで、今回は本当に最高の
「現実と夢を繋ぐ瞬間に出会うこと」
これが出来た。
※迷惑もたくさんかけましたが。(;O;)
出会ってくれた全ての皆様に感謝。
○被災地での気づき(まとめ)
2011年3月11日 東日本大震災
本当にたくさんの方が突然、大切な明日を失った。
はじめて自分自身、
いつ人生が終わるか分からないものだと、
気づかされた。
震災からずっと自分の中で大切にしている言葉がある。
そして、この120kmを走って再度・心に誓った。
「今日という日は
昨日亡くなった方が生きたかった
明日である」
このことだけは間違いない。
自分の毎日毎日を大切にしよう。
他人から見た格好なんて、本当にどうでもよい。
自分の毎日をやりきったという毎日にしよう。
一歩一歩、自分らしく歩み続けて
毎日毎日、新しい夢と出会い続けよう。
そして
ゴールは新しいスタートの始まり。
新しい、《未知の道》へのスタート地点。
やりきってはじめて気づいた。
ラスト10kmで手のひらに書いた時、無意識で書いて分からなかったけど
全てが分かったような気がした。
ということの真意を。
きっと新しい夢を叶え続けると
その先に
「穂高岳は世界一の山。世界一になれ」
という夢が最後に待っているはず。
※まだどうすればそこまで行けるか分からないけど。(´・ω・)
この夢(=世界一)と繋ぐ瞬間に出会う為に
永遠(?)と走り狂っていきたいと思います!!!!
ってことでランは辞められない\(^o^)/
社会人になっても続けていきます。
ビジネスアスリートとして。
夢へ挑戦できる環境に、この世に生きるものとして、
夢を夢じゃないことを証明し続けること。
そのために、成長をし続ける義務。
そして、現実と夢を繋ぐ瞬間に出会うすばらしさ。
それを、伝承していくこと。
夢はwant
目標はmust
《夢は目標を達成し続けたら必ず叶う》
証明し続けることこそが、ライフワーク
なのかと。
最後に一言。
くっっっそ
ありがとうございました!
帰りのバスと電車は120kmを3時間で空港まで到着しました。。笑
走り始めて1か月で東北120km単独走って気づいたこと
おわり。
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その3 ~単独チャレンジだけど、一人じゃない~
無事に8年ぶりにおばあちゃんの再会》
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その2 ~初めての被災地、そしておばあちゃん~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために
ここからは、おばあちゃんに言われた
「穂高岳は世界一の山。世界一になれ」
この言葉を意味を頭の中で考えながら、120kmを走る旅路。
さらに、今回のチャレンジが自分一人のものではないものだと知るものとなった。
○閖上と稲穂
おばあちゃんとの再会を後にして、気温的には30℃近くあり
結構暑かった。(; ・`д・´)
とにかく、水分が消える。消える。消える。
ただ前半は比較的、補給ポイント(≒コンビニ)が多いので継ぎ足しながら、
快調に一歩一歩進んでいく。
今回のチャレンジでは、足に加速度センサーを付けているので
進んだ距離や時速、1kmの所要ペースも分かる。
これのお陰で、ある程度一定ペースを維持できる、という優れもの('ω')ノ
SUUNTO(スント) FOOTPOD MINI S016592000 【日本正規品】
- 出版社/メーカー: SUUNTO(スント)
- 発売日: 2011/04/22
- メディア: スポーツ用品
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また、心拍センサー(ハートレート)も付けているから、
一定数の心拍を超えたらペースを落とすように、
「自分を推し進め、自制する」
というコトは前提にチャレンジをしている。
(※バカといえども、迷惑をかけないように。単独だし)
快調に走ってる中、被災地の中でも記憶に深く残ってる場所へ
「閖上地区」
この場所は、津波の中継の映像で何度も観た。
避難場所の小学校がそのまま飲まれる、という映像をよく覚えている。
この小学校の前で立ち止まりたくさんのことを考えた。
- 自分の過去の夢、
- 男の子なのにエレクトーンプレーヤーになりたかったこと、
- 鹿児島でアルペンスキーやったこと、
- 理系×スポーツ推薦×主将の道を選んだこと
- 挑戦しても色んな人と歩幅が合わず上手くいかなかったこと
- 時には上手くいったこと
何より
「挑戦出来ていること」
の幸せ。
そしてココで助かると思ったのに、助からず。そして突然、人生が終わる。
「自分が生かされている」
このことを強く感じた。
○苦しさと応援と責任
ここからはまた調子良く、一定のペースで。
大体6min30sec/kmを安定して刻んでいただろうか。
※荷物が10kgちかく背負うと、これがちょうど良い
「えっ全然、いけるじゃん!!('ω')ノ
1か月前とか5km走るのも嫌だったのに(/・ω・)/」
ってな感じで途中でも記念撮影したり
本当に雄大な景色を
ドリカムの名曲
「うれしい!たのしい!大好き!」
うれしい!たのしい!大好き! / DREAMS COME TRUE - YouTube
を(聴きながら)歌いながら、調子に乗りながらテンション高く走る。(∩´∀`)∩
……
40km地点くらいまでは、、、
ちょうど初日75kmの半分を超えたあたりから
雲行きが怪しくなってくる。
ペース的には快調だったが、やけに脚の後ろが張る。
意味が分からないくらい張る。
ストレッチをだましだまし挟んでも、、、
意味がない。
そして、
ペースも落ちる。
歩きもはさみながら、とぼとぼ進む。
そして、原因を考える。
……
……
……
はっ( ゚Д゚)
あることに思いつく、、、
1週間前にやった「山手線一周の時」のハチャメチャな行動
≒ スクランブル交差点ダッシュ/階段ダッシュ/ふなっしーごっこetc..
ええ、ストレッチしてた時、びっくりするくらい
1週間前の自分の姿を思い出しましたよ。(; ・`д・´)
ちなみに、写真はスクランブル交差点ダッシュ。(; ・`д・´)
そんなこんなで、メンタル的に乱れ始めたからは本当にきつかった。
予定時刻を大幅に遅れ始めてたし、
仲間と走ってたから。
※山手線一周の時の仲間との昼食
どうでも良い話をしたり、みんなで同じ目標を確かめ合ったり。
自然と支え合って達成をしてきた。
でも今回はこれが全て無い。
今回は単独ランであること、思い知らされた。
※この後に本当の単独ランの難しさがやってくる。
とぼとぼ走ってるんだか歩いてるんだか(´・ω・)
分からないくらいのペースの時
……
……
他人に付けられてるのを感じる( ゚Д゚)
そして、、声をかけられる( ゚Д゚)( ゚Д゚)
……
「ねぇねぇ、どこまで走ってるのーーー?」
下校途中の地元の小学生だった。
いるまの身に着けてるものが、普通ではないから興味を持ったらしい。
≒キモチワルイ恰好?
ここ(45km地点)から30kmまだ先まで走ること、
そして、翌日にはまだ45kmを走ること、
これを伝えると、よほど未知の世界観だったんだろう
目をキラキラさせながらいろんな会話をした。
今きついこと、夢のこと、震災のこと。
最後におっきな声で
「絶対ゴールしてね!!」
と、エールを。
ありがとう。元気が出たよ。がんばるよ、うん( ;∀;)
そこからは、ガムテープで意味不明にゼッケン作ってることから、多くの人に応援されました。
- チャリに乗ってるおばちゃん
- 信号待ちのトラック運転手
- バス待ちのおじいちゃんおばあちゃん軍団
など
きっとみんな、家でしゃべってくれてるのかな?
「120km走ってるアホみたいな男の子がいたよ!('ω')ノ」
って。
この時から《勝手な責任感》芽生える。
もしかしたら、この姿をみて
《似たようなチャレンジしてくれる人出てくるかも!?》って。笑
自分の気持ちを整理するだけ、そして次への一歩を踏み出すための挑戦なのに、
そこからは自然と故障してることすら忘れ、
出会った色んな人へ感謝をしながらただひたすら進む。
○ナイトステージ 25kmの孤独な戦い
ある本で読んだことがある。
「マラソンは自分との戦い。増してやULTRA級になると、自分としか戦わない」
このことを本気で痛感する時間帯だった。
日本三大絶景の松島へ到着し始めた頃からあたりから日が暮れ始めた。
ココからは、まだ初日のゴール石巻まで20km以上もの道のりが待っている。
色々な人の応援をもとに、メンタルは復活し始めたけど、
脚はもう限界に近い。そして空腹も。
松島での補給ポイントのコンビニを最後に、ここから石巻までは20km近くコンビニが無い。
それどころか、津波で全てが無いこと(事実、線路は全部流されてた)が考えられ、
まともな道路もない、そして街灯も無いことまでも考えられた。
この時点で昼間の30℃とは打って変わって気温は10℃くらいまで下がり
最終の補給では予備の食材、そして身体を温め、準備を整える。
そして、気持ちをリフレッシュしてスタート。
ナイトステージは、とにかくメンタルとの戦いだった。
脚が痛くて、何時間も人と合わないから、正直メンタル的に崩壊寸前だった。
本当の意味で「単独での挑戦」ということを思い知る。
一回だけ52km地点で座り込んだ。
何キロ走っても、自動販売機すら無くて、車も通らないしで、
ただただFacebookに届いてた応援メッセージを読んでいた。
そして、その時聞いた曲が、、
RAMWIRE 「夢のあかし」
RAM WIRE 「夢のあかし」 小学5年の女子フィギュアスケート超新星:渡辺倫果出演のドキュメントMV - YouTube
この中の歌詞に心を打たれる。
「あと一歩あと一歩前へ無数の笑顔が待っている
夢が夢じゃないことを 身体中で明かすために行くんだ」
そして、このblogのタイトルにもなっている
「現実(いま)と夢を繋ぐ瞬間に
僕は出会うために」
《120km走破》
この夢を夢じゃないこととして証明する。
そして、それを証明した瞬間に出会ってみたい。
そう思いおもむろに、書き出す。で走り出す。
ここからは、今までバカみたいにケンカしてた脚と頭が一心同体になる。
「あと○○キロだから、△△まで□□のペースで走ろう。
そしたら、☆時に石巻着くよ!」
このぐらいの距離を走って新たに気づいたことがあった。
「幽体離脱」
(; ・`д・´)っ
完全のこの頭と足とのやり取りを、客観視する自分がいる。
そして、ただただ自分で自分を応援する。
たくさんの人に支えられ、そしてたくさんの人に応援されて
いっぱいメッセージもらって
時には走ってるのに電話がきて
そのことを噛みしめて、ただひたすら一歩一歩。
応援してくれる全ての人へ感謝をこの時心から思った。
また、この区間(ナイトステージの25km)が一番色んなことを考えた。
震災の爪痕を一番見続けた区間だった。
・とぎれとぎれになる線路
・仮設の橋
・壊れた街灯に、さら地になって区画整理されてる土地
ひとりになると、考え込むことがほとんどだった。
今回の挑戦で辛かったこと、うれしかったこと
3年半前の震災からの想い
8年間会えなかったおばあちゃんへの想い
良く分からなくて、泣きながら走った。お陰でコンタクト2回外れた。泣
もっと良く分からなくなったから、泣きながら親に電話した。
そして、親の存在を感謝した。
言われたひとことは
「やりきれ」
ただこれだけ。
さすが、イルマガワ家。
基本放置プレイでもどんな環境でも、
《諦めること、環境のせいにすること、人のせいにすること》
これだけ叩き込まれてきたから。
ナイトステージも6時間くらい経過して
23時07分。
石巻到着。
↑↑口元笑ってるけど、疲れ切って、目腫れきってる。笑
time:13時間07分13秒
長かった。本当に長かった。(まだ明日あるけど。)
ホテルのおじちゃんに、到着予定時刻を大幅にオーバー(予定は20時)
してたから、心配されたけど、
何とかここまでたどり着いた。
曲がらない膝、そして冷え切った身体をどうにか湯船に着けて
ベッドインしてからチン寝。
6時間後に今回の難所、標高差400m超えの峠へ向かって進こととなる。
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その4 ~峠越え、そして南三陸へ~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その2 ~初めての被災地、そしておばあちゃん~
《 走り始めて1ヵ月で東北120km単独ラン完走を目指す》
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その1 ~なぜ走ろうかと思ったか?~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために
と決めてから鬼のように練習(大学学部時代の部活よりハード)を経て、
2014年10月7日
前日(10月6日)に24歳になり、この日がその記念すべき1日目。
ここから120km先への長い道のりが始まる。
○すさまじい強行日程
今回の東北120km単独ランは、1泊2日の弾丸予定。
==================================
走る格好で飛行機に乗り、翌日ゴールして、
電車バス飛行機を乗り継ぎ空港まで戻り
飛行機に乗って終電で自宅へ帰宅(; ・`д・´)
==================================
というなんともプリティな日程。
飛行機乗る瞬間は
「あー、東北まで飛行機で行って
120kmを2日がかりで走りまくって
明日には関西に帰ってきて家で寝てるんかww」
みたいな呑気なこと考えてました(地獄始まるのにね)
※この時は計算違いで115kmという予定だった。笑
10時に仙台空港を出発し、
1時間半ほど15km走って、名取市でおばあちゃんに面会。
そこから60kmほど太平洋沿いを永遠と走り、
石巻市までの75km。
2日目は朝に出発し山沿いを永遠と走り、
コンビニが25km無い区間、峠を乗り越えながら、
14時までに南三陸まで到着。
南三陸ホテル観洋の会いたい人との面会を経て、
15時半ごろのバスでせっせと関西に戻る。
というスケジュール。
もっと詳細なタイムテーブルは、、
こんな感じ。
(すぐに予定通りいかなくて、数回しか開かず結局Googleマップ頼みだったけど。)
ちなみに、関西に戻ってすぐに、、、
研究室の同期らと
スペイン・バルセロナへ出国。笑
未来予想図という映画が昔好きで、とにかくタイミング(値段的安さ)
が劇的に良かったので、やりました。はい。
《いるまとファミリア》
※いるま×サクラダファミリア
そう、だから仙台空港を出走する段階で
翌日の15時半までにゴールしないと、
ここから先の予定が全て企画倒れになる( ゚Д゚)
という完全に背水の陣ばりのケツを決めてる状態\(゜ロ\)(/ロ゜)/
での出走となったのです。笑
○初めての被災地
2014年10月7日10:00
訳の分からない格好で飛行機に乗り込んで仙台空港に9:30に到着。
足の裏から太ももまで、訳の分からない量のテーピングをし
無事に出走準備完了。
選手の出待ちをする、花の都・仙台の美女たちがうようよいる場所を
キチガイな恰好した男が通り過ぎ
国際線ターミナルのほうでパシャり
《今からスタートします( `ー´)ノ》
的な。
3年半前、出走場所の仙台空港も
大きな津波の被害を受けたところ。
空港の建物内まで津波が押し寄せて、多くのものが流されたことは良くおぼえてた。
でも空港はすごくきれいで、
「思ったより復興って進んでるのかな?」
と思いました。
……
出走するまでは。
……
500mも走ればにその思ったことは全て、崩れました。
秋晴れのもと、空港のそばの土地は整備は進んでたものの、
本当にたくさんの量のダンプカー(多分2日間で500台以上はすれ違った)
と、たくさんの爪痕を早くも目にしました。
最初この光景を見た時、ただただ茫然。
走り始めてまだ10分も経ってないのに、、、
ただ、一人たたずむ。
正直、受け入れられる自信なんて甚だなく、
引き返そうか?とまで思ったのも事実。
それでも今回の目的。
「おばあちゃんに自分の足で走って会いに行って
被災地を自分の足で走って心に刻む」
このことだけを全うしよう、と。
再度ココロに近い、走り出しました。
○おばあちゃんに会う、そしてお手紙
安定の方向音痴を持っているのか( ゚Д゚)
散々、道に迷いまくっておばあちゃんが入所している施設へ。
ここまでの15kmの道のりは、
《最初に何と言葉をかけたら良いのか?》
ただ、そのことだけを考えてました。
-もういるまのことなんて覚えて無いかもしれない。
-8年も会わなくて本当に申し訳ない。
-来年から、マリモと働くんだよ。
など
色んなことを考えました。そして、昔訪れたことある場所を通りながら。
最初い言う言葉なんて決まらず、施設の前で10分ほど悩んで
ラチがあかなくなってきたから、意を決して突入。
結論、いるまのコトは覚えていませんでした。
分かってたけど、やっぱりショックでした。
顔は全く変わってないのにね。認知症ってこうなってしまうんだ、、、
いつもTVや本に書いてあること、このことを全て実感しました。
いっぱいの後悔も、、、頭をよぎりました。
でも、一つ自分で褒めるとしたら、、
おばあちゃんの前で泣かなかったこと。
それからは、本当に色んな話をしました。
今やっていること、そして今までこんなことしてきたよ、とか。
これから、どうしようかなー的な相談もしました。
全てを笑顔で聴いてくれて、相槌を打ってくれて。
出発の時間が近づいて、最後に
「穂高(いるまの下の名前)、これから100km以上走っていくんだ」
と言ったところ
「穂高岳は世界一の山だよね。名前に負けないように、世界一になってね。
負けちゃだめだよ。」
ただただ、言葉を失いました。
孫のことは覚えてなくても、山のことは覚えててくれました。
おばあちゃん自身、山が本当に好きで、穂高という名前が付けられた時、
心から喜んでくれたらしいです。
小学生の時、家族とおばあちゃん総出で「穂高岳(3000m級)」に登りました。
それからずっと引っかかり続けた言葉。
「世界一になれ」
たった一人の挑戦だから、何が起きても世界一は頂戴してる(?)のに
この言葉、ここから100km。
ずっとずっと考え続けて、
挙句の果てに答えを出し切らなかったから
約2ヵ月にもわたり今日まで、
必死に考え抜きました。
そして、この120kmの旅路でもこの言葉が多くの気づきを得るキッカケとなりました。
さすがに目の前でネガティブなことを直接言うことはできず。
「8年間会いに行けなくて本当にごめんなさい」
という想い。
これは手紙に添えて、おばあちゃんのいる施設を後に
もう100km、ゴールの南三陸町を目指してへ突き進み始めました。
↓↓つづき
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その3 ~単独チャレンジだけど、一人じゃない~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その1 ~なぜ走ろうかと思ったか?~
○ はじめに
2014年10月7~8日
マラソンの練習を始めて1ヵ月で
21時間以上かけて単独で走破。
単独でのチャレンジ。
仙台のおばあちゃんや東北の被災地で、自分自身が心に刻んだもの。
そして限界を何度も超え、その苦しさの中から気づいた、
「現実(いま)と夢を繋ぐ瞬間との出会い」
いるま自身の24歳の誕生日にチャレンジして得た、新たな人生の始まりの瞬間を綴りました。
○ 根本的に東北を120km走るまで(走り始めたキッカケ)
120kmを走る1ヵ月ほど前。
大学院2年生 2014年8月末。
就職活動も終わり、修士論文と戦う(≒死闘)というありきたりな毎日に
《何か面白いことはないかな?('ω')》
というキッカケ(=ノリ)で始めた、マラソン。
高校・大学(学部時代)でアルペンスキーしてたとは言え、
陸上で例えると400mの選手に近いものだから、今までの最大不倒距離15km。
「まじでフルマラソンとか走る人意味わからね( ゚Д゚)」
「なんであんな2時間以上も走るの面白いんだよ?( ゚Д゚)」
などと思ってたのに。
2014年9月初旬。
《大阪環状線一周ラン(=25km)》
修士論文中間発表の現実逃避中に少しでもおもろいことしたくてやってみた。
完全なるノリで。
同じように修論に追われ、また同じ色を持ち、現実逃避を模索してた(?)
入社予定の会社の同期や仲間と色んなイベントしながら6時間かけて走破。
全員、元運動系ということで完全に舐めきっていたが、
思ったより時間はかかるし(予定は3時間でいけると思ってた。笑)
後半、訳わからないくらいしんどいし
(※昼ご飯に調子のって食べた串カツのせいでもある)
2度とここまで走らない(; ・`д・´)
と思ったのに。
これまでの最長15kmから25km。
ゴールしてからさっきとは違い、変なことを思ってしまった。
たった10km伸びたとはいえ、今まで体感したことない
「未知の距離」
を乗り越えた瞬間。
訳が分からないくらい、足が痛くなってきた瞬間。
そして、ゴールが見えてきた瞬間のあの高揚感、自分の常識を超える瞬間。
23年生きてきて、全てが未知過ぎて、、
「なんだこれ、、《未知の道》もっと見てみてたい('ω')ノ」
と、(変態の)羅針盤はピーンっと一つのベクトルを示し、
もうここまで来ると、
《東のもう1個ぐるっと一周してるのも行きたくなる》もので、
3週間後に入社予定の会社の内定式がある(=東京に行ける)
というまさにココしかない絶好のタイミングを見つけて
《山手線一周ラン(45km)》
を東京の仲間たち(入社予定の会社の同期)と内定式前日にも関わらず、10時間かけて走破。
そこであることに気づく。
1か月前に
「フルマラソンなんて、、( ..)φ」
って思ってたのが
「フルマラソンくらい、、(/・ω・)/」
と《思考》が変わる。そして《基準》が変わる。
そしてその後自分自身が、マラソンを通じて多くのモノを吸収し、
さらに大きな気づきを得るとは思いもしなかった。
○東北へのキッカケはおばあちゃんに会いに行こう
話はランから逸れるけど、
宮城県に、おばあちゃんが住んでいる。
小さい頃から、「仙台のおばあちゃん」と呼んで、年に数回鹿児島から会いに行ってた。
しかしいるまが高校生の時の8年前に認知症を発症し、実はそれから出会ってない。
当時は現実を受け入れることが出来なかったことをよく覚えている。
ただ一度だけ20歳の時、意を決して会おうとした。
いい加減、自分自身大人になったし受け入れよう。と。
でも実際は会えなかった。
2011年3月 東日本大震災。
当時、スキーの遠征の経由地で東京にいて横浜の親戚の家で
「知ってる街、遊んだことある場所が津波に、、」
という映像を観ることとなった。
あまりにもショッキング な映像だったし、
SNSを通じて安否確認に必死になってたこと、今でもよく覚えている。
そのあと会いに行くのは、気が動転していたし、
何より現地に立つのが、無理だった。
そして逃げるように関西に戻った。
それからあっという間に3年半。
ボランティアとかに参加して何度か行こうとしたけど、弱い自分がいて、一度も行く決心を固めることが出来なかった。
そんな中、2014年8月の修士論文中間発表の準備に(死ぬほど)追われてた時に
ポジティブな曲を聴きたくて、YouTubeで見つけたもの。
研究が上手くいかなくて、悩んでた時、たまたま見つけたこの動画に釘付けになった。
なんでか分からないけど、
自分の悩みなんて、ちっさく感じた。そして元気をもらった。
そして観たあとすぐに、行動をする。
「1ヵ月後の自分の誕生日を迎えた後すぐ、
仙台までおばあちゃんに会いに行って、
おばあちゃんを、被災地を心に刻む」
ということを目的に1泊2日で仙台へ行くという予定を立てた。
○仙台→南三陸=100km
仙台に行くのを決めたのは8月末。
ちょうど、JRのぐるっと回ってる系の電車の走破計画に夢中になってた頃、
おばあちゃんに会いに行って、被災地のどこを訪ねようか?
3週間ほど悩んでいた。
3週間考えた末、見つけたものがこれ。
この仕事に会えて、よかった。「南三陸で働く」編 フル 【リクナビNEXT】 - YouTube
この人(斎藤さん)が言っている
「この地(=南三陸町)で元気づけられた」
この言葉。
まだ復興途中であろう街で
どうしてこんなことを思ったのか?
電話ではなく、メールではなく、直接会って聞いてみたかった。
ただ南三陸の場所は分からない。
「日程的に仙台空港から遠かったら、厳しいかな(。´・ω・)?」
と、物は試しにこの世の全ての教師も凌駕するGoogle先生に聞いてみる。
時は、環状線一周を達成し
山手線を一周することしか考えてない、
まさに走るワクワクの絶頂期。
ということはこの時、まさかのことが、しかも即座に頭をよぎる
「走れるかもしれない、、、もしかしたら」
ただし環状線一周のノリとは違い確かに、悩んだ(30分ほど)
理由はこの時、走り始めて1か月経たない中
山手線一周でも最長不倒距離が25km→45kmという
《未知の道》
でかなり恐怖だったから。
100km走ったら人間ってどうなるんだろ( ;∀;)
と本気でビビった。
……
……
……
……はっ(;・∀・)
山手線を一周45kmすることで不安だったら、
先に45kmを走れることを立証してしまえば良い。
ということで、超長距離に必要そうなものをAmazonで片っ端からポチリ、道具を揃え
その時、自宅からちょうど45km先(三田→三ノ宮)で飲み会があることをチャンスととらえ、
いつもの移動手段《電車》を《ラン》に変換してみた。
↑↑ちゃんと観光地を経由地に設定する@兵庫・有馬温泉
45kmや100kmを走るには、途中《食事》もしっかり取りながらじゃないと
ハンガーノック(=ガス欠状態)になるらしい(; ・`д・´)
また、単独でランを行うことから補給も単独でしなければならない。
となれば、しっかり運動中でも食事。お蕎麦うまし(∩´∀`)∩
9月はまだ30℃近く、背中に4Lもの水分を背負う。
ってか感じでやってみたら、無事に7時間くらいで完走('ω')ノ
ただ足の爪は無くなるし、水ぶくれは今まで見たことないような大きさだし( ;∀;)
でも、そのあとのビールの美味さね。今までで一番だった。
ということで、、
45kmが《未知の道》では無くなったことで、もう恐れるものはない。
「東北120kmラン」
を決意する。
※車で100km/ランで120km
ただ東北に行くだけでなく、
「おばあちゃんに自分の足で走って会いに行って
被災地を自分の足で走って心に刻む」
という目標に変わる。
この時、チャレンジの3週間前。
ここからは月間300km近いペースで練習。
がむしゃらだった。
山手線一周を走ろうとも、どんなに朝起きるのがしんどくても
毎朝走って、3部練ペースで練習。
時には、飲み会の翌日に起きるのがしんどいだろうと予期し
「走る格好で飲み会に参加して、そのまま寝る(; ・`д・´)」
ね、確かこの時は3次会しててかなり酔ってたけど、
しっかり翌朝には(二日酔い全開で)10kmテンション高く走ってました。笑
いきなりのハイペースに故障の連続だったけど、
ただひたすら、
「120kmを走ることだけ」
を考えて毎日を過ごす。そんな日々。
ただただ
「走れない距離は無い
届かない夢は無い」
そう呪文を唱え続けて。
そんなこんなで、達成できることしか考えずに、東北に上陸する。
↓↓つづき
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その2 ~初めての被災地、そしておばあちゃん~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために