走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その2 ~初めての被災地、そしておばあちゃん~
《 走り始めて1ヵ月で東北120km単独ラン完走を目指す》
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その1 ~なぜ走ろうかと思ったか?~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために
と決めてから鬼のように練習(大学学部時代の部活よりハード)を経て、
2014年10月7日
前日(10月6日)に24歳になり、この日がその記念すべき1日目。
ここから120km先への長い道のりが始まる。
○すさまじい強行日程
今回の東北120km単独ランは、1泊2日の弾丸予定。
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走る格好で飛行機に乗り、翌日ゴールして、
電車バス飛行機を乗り継ぎ空港まで戻り
飛行機に乗って終電で自宅へ帰宅(; ・`д・´)
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というなんともプリティな日程。
飛行機乗る瞬間は
「あー、東北まで飛行機で行って
120kmを2日がかりで走りまくって
明日には関西に帰ってきて家で寝てるんかww」
みたいな呑気なこと考えてました(地獄始まるのにね)
※この時は計算違いで115kmという予定だった。笑
10時に仙台空港を出発し、
1時間半ほど15km走って、名取市でおばあちゃんに面会。
そこから60kmほど太平洋沿いを永遠と走り、
石巻市までの75km。
2日目は朝に出発し山沿いを永遠と走り、
コンビニが25km無い区間、峠を乗り越えながら、
14時までに南三陸まで到着。
南三陸ホテル観洋の会いたい人との面会を経て、
15時半ごろのバスでせっせと関西に戻る。
というスケジュール。
もっと詳細なタイムテーブルは、、
こんな感じ。
(すぐに予定通りいかなくて、数回しか開かず結局Googleマップ頼みだったけど。)
ちなみに、関西に戻ってすぐに、、、
研究室の同期らと
スペイン・バルセロナへ出国。笑
未来予想図という映画が昔好きで、とにかくタイミング(値段的安さ)
が劇的に良かったので、やりました。はい。
《いるまとファミリア》
※いるま×サクラダファミリア
そう、だから仙台空港を出走する段階で
翌日の15時半までにゴールしないと、
ここから先の予定が全て企画倒れになる( ゚Д゚)
という完全に背水の陣ばりのケツを決めてる状態\(゜ロ\)(/ロ゜)/
での出走となったのです。笑
○初めての被災地
2014年10月7日10:00
訳の分からない格好で飛行機に乗り込んで仙台空港に9:30に到着。
足の裏から太ももまで、訳の分からない量のテーピングをし
無事に出走準備完了。
選手の出待ちをする、花の都・仙台の美女たちがうようよいる場所を
キチガイな恰好した男が通り過ぎ
国際線ターミナルのほうでパシャり
《今からスタートします( `ー´)ノ》
的な。
3年半前、出走場所の仙台空港も
大きな津波の被害を受けたところ。
空港の建物内まで津波が押し寄せて、多くのものが流されたことは良くおぼえてた。
でも空港はすごくきれいで、
「思ったより復興って進んでるのかな?」
と思いました。
……
出走するまでは。
……
500mも走ればにその思ったことは全て、崩れました。
秋晴れのもと、空港のそばの土地は整備は進んでたものの、
本当にたくさんの量のダンプカー(多分2日間で500台以上はすれ違った)
と、たくさんの爪痕を早くも目にしました。
最初この光景を見た時、ただただ茫然。
走り始めてまだ10分も経ってないのに、、、
ただ、一人たたずむ。
正直、受け入れられる自信なんて甚だなく、
引き返そうか?とまで思ったのも事実。
それでも今回の目的。
「おばあちゃんに自分の足で走って会いに行って
被災地を自分の足で走って心に刻む」
このことだけを全うしよう、と。
再度ココロに近い、走り出しました。
○おばあちゃんに会う、そしてお手紙
安定の方向音痴を持っているのか( ゚Д゚)
散々、道に迷いまくっておばあちゃんが入所している施設へ。
ここまでの15kmの道のりは、
《最初に何と言葉をかけたら良いのか?》
ただ、そのことだけを考えてました。
-もういるまのことなんて覚えて無いかもしれない。
-8年も会わなくて本当に申し訳ない。
-来年から、マリモと働くんだよ。
など
色んなことを考えました。そして、昔訪れたことある場所を通りながら。
最初い言う言葉なんて決まらず、施設の前で10分ほど悩んで
ラチがあかなくなってきたから、意を決して突入。
結論、いるまのコトは覚えていませんでした。
分かってたけど、やっぱりショックでした。
顔は全く変わってないのにね。認知症ってこうなってしまうんだ、、、
いつもTVや本に書いてあること、このことを全て実感しました。
いっぱいの後悔も、、、頭をよぎりました。
でも、一つ自分で褒めるとしたら、、
おばあちゃんの前で泣かなかったこと。
それからは、本当に色んな話をしました。
今やっていること、そして今までこんなことしてきたよ、とか。
これから、どうしようかなー的な相談もしました。
全てを笑顔で聴いてくれて、相槌を打ってくれて。
出発の時間が近づいて、最後に
「穂高(いるまの下の名前)、これから100km以上走っていくんだ」
と言ったところ
「穂高岳は世界一の山だよね。名前に負けないように、世界一になってね。
負けちゃだめだよ。」
ただただ、言葉を失いました。
孫のことは覚えてなくても、山のことは覚えててくれました。
おばあちゃん自身、山が本当に好きで、穂高という名前が付けられた時、
心から喜んでくれたらしいです。
小学生の時、家族とおばあちゃん総出で「穂高岳(3000m級)」に登りました。
それからずっと引っかかり続けた言葉。
「世界一になれ」
たった一人の挑戦だから、何が起きても世界一は頂戴してる(?)のに
この言葉、ここから100km。
ずっとずっと考え続けて、
挙句の果てに答えを出し切らなかったから
約2ヵ月にもわたり今日まで、
必死に考え抜きました。
そして、この120kmの旅路でもこの言葉が多くの気づきを得るキッカケとなりました。
さすがに目の前でネガティブなことを直接言うことはできず。
「8年間会いに行けなくて本当にごめんなさい」
という想い。
これは手紙に添えて、おばあちゃんのいる施設を後に
もう100km、ゴールの南三陸町を目指してへ突き進み始めました。
↓↓つづき
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その3 ~単独チャレンジだけど、一人じゃない~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために