走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その1 ~なぜ走ろうかと思ったか?~
○ はじめに
2014年10月7~8日
マラソンの練習を始めて1ヵ月で
21時間以上かけて単独で走破。
単独でのチャレンジ。
仙台のおばあちゃんや東北の被災地で、自分自身が心に刻んだもの。
そして限界を何度も超え、その苦しさの中から気づいた、
「現実(いま)と夢を繋ぐ瞬間との出会い」
いるま自身の24歳の誕生日にチャレンジして得た、新たな人生の始まりの瞬間を綴りました。
○ 根本的に東北を120km走るまで(走り始めたキッカケ)
120kmを走る1ヵ月ほど前。
大学院2年生 2014年8月末。
就職活動も終わり、修士論文と戦う(≒死闘)というありきたりな毎日に
《何か面白いことはないかな?('ω')》
というキッカケ(=ノリ)で始めた、マラソン。
高校・大学(学部時代)でアルペンスキーしてたとは言え、
陸上で例えると400mの選手に近いものだから、今までの最大不倒距離15km。
「まじでフルマラソンとか走る人意味わからね( ゚Д゚)」
「なんであんな2時間以上も走るの面白いんだよ?( ゚Д゚)」
などと思ってたのに。
2014年9月初旬。
《大阪環状線一周ラン(=25km)》
修士論文中間発表の現実逃避中に少しでもおもろいことしたくてやってみた。
完全なるノリで。
同じように修論に追われ、また同じ色を持ち、現実逃避を模索してた(?)
入社予定の会社の同期や仲間と色んなイベントしながら6時間かけて走破。
全員、元運動系ということで完全に舐めきっていたが、
思ったより時間はかかるし(予定は3時間でいけると思ってた。笑)
後半、訳わからないくらいしんどいし
(※昼ご飯に調子のって食べた串カツのせいでもある)
2度とここまで走らない(; ・`д・´)
と思ったのに。
これまでの最長15kmから25km。
ゴールしてからさっきとは違い、変なことを思ってしまった。
たった10km伸びたとはいえ、今まで体感したことない
「未知の距離」
を乗り越えた瞬間。
訳が分からないくらい、足が痛くなってきた瞬間。
そして、ゴールが見えてきた瞬間のあの高揚感、自分の常識を超える瞬間。
23年生きてきて、全てが未知過ぎて、、
「なんだこれ、、《未知の道》もっと見てみてたい('ω')ノ」
と、(変態の)羅針盤はピーンっと一つのベクトルを示し、
もうここまで来ると、
《東のもう1個ぐるっと一周してるのも行きたくなる》もので、
3週間後に入社予定の会社の内定式がある(=東京に行ける)
というまさにココしかない絶好のタイミングを見つけて
《山手線一周ラン(45km)》
を東京の仲間たち(入社予定の会社の同期)と内定式前日にも関わらず、10時間かけて走破。
そこであることに気づく。
1か月前に
「フルマラソンなんて、、( ..)φ」
って思ってたのが
「フルマラソンくらい、、(/・ω・)/」
と《思考》が変わる。そして《基準》が変わる。
そしてその後自分自身が、マラソンを通じて多くのモノを吸収し、
さらに大きな気づきを得るとは思いもしなかった。
○東北へのキッカケはおばあちゃんに会いに行こう
話はランから逸れるけど、
宮城県に、おばあちゃんが住んでいる。
小さい頃から、「仙台のおばあちゃん」と呼んで、年に数回鹿児島から会いに行ってた。
しかしいるまが高校生の時の8年前に認知症を発症し、実はそれから出会ってない。
当時は現実を受け入れることが出来なかったことをよく覚えている。
ただ一度だけ20歳の時、意を決して会おうとした。
いい加減、自分自身大人になったし受け入れよう。と。
でも実際は会えなかった。
2011年3月 東日本大震災。
当時、スキーの遠征の経由地で東京にいて横浜の親戚の家で
「知ってる街、遊んだことある場所が津波に、、」
という映像を観ることとなった。
あまりにもショッキング な映像だったし、
SNSを通じて安否確認に必死になってたこと、今でもよく覚えている。
そのあと会いに行くのは、気が動転していたし、
何より現地に立つのが、無理だった。
そして逃げるように関西に戻った。
それからあっという間に3年半。
ボランティアとかに参加して何度か行こうとしたけど、弱い自分がいて、一度も行く決心を固めることが出来なかった。
そんな中、2014年8月の修士論文中間発表の準備に(死ぬほど)追われてた時に
ポジティブな曲を聴きたくて、YouTubeで見つけたもの。
研究が上手くいかなくて、悩んでた時、たまたま見つけたこの動画に釘付けになった。
なんでか分からないけど、
自分の悩みなんて、ちっさく感じた。そして元気をもらった。
そして観たあとすぐに、行動をする。
「1ヵ月後の自分の誕生日を迎えた後すぐ、
仙台までおばあちゃんに会いに行って、
おばあちゃんを、被災地を心に刻む」
ということを目的に1泊2日で仙台へ行くという予定を立てた。
○仙台→南三陸=100km
仙台に行くのを決めたのは8月末。
ちょうど、JRのぐるっと回ってる系の電車の走破計画に夢中になってた頃、
おばあちゃんに会いに行って、被災地のどこを訪ねようか?
3週間ほど悩んでいた。
3週間考えた末、見つけたものがこれ。
この仕事に会えて、よかった。「南三陸で働く」編 フル 【リクナビNEXT】 - YouTube
この人(斎藤さん)が言っている
「この地(=南三陸町)で元気づけられた」
この言葉。
まだ復興途中であろう街で
どうしてこんなことを思ったのか?
電話ではなく、メールではなく、直接会って聞いてみたかった。
ただ南三陸の場所は分からない。
「日程的に仙台空港から遠かったら、厳しいかな(。´・ω・)?」
と、物は試しにこの世の全ての教師も凌駕するGoogle先生に聞いてみる。
時は、環状線一周を達成し
山手線を一周することしか考えてない、
まさに走るワクワクの絶頂期。
ということはこの時、まさかのことが、しかも即座に頭をよぎる
「走れるかもしれない、、、もしかしたら」
ただし環状線一周のノリとは違い確かに、悩んだ(30分ほど)
理由はこの時、走り始めて1か月経たない中
山手線一周でも最長不倒距離が25km→45kmという
《未知の道》
でかなり恐怖だったから。
100km走ったら人間ってどうなるんだろ( ;∀;)
と本気でビビった。
……
……
……
……はっ(;・∀・)
山手線を一周45kmすることで不安だったら、
先に45kmを走れることを立証してしまえば良い。
ということで、超長距離に必要そうなものをAmazonで片っ端からポチリ、道具を揃え
その時、自宅からちょうど45km先(三田→三ノ宮)で飲み会があることをチャンスととらえ、
いつもの移動手段《電車》を《ラン》に変換してみた。
↑↑ちゃんと観光地を経由地に設定する@兵庫・有馬温泉
45kmや100kmを走るには、途中《食事》もしっかり取りながらじゃないと
ハンガーノック(=ガス欠状態)になるらしい(; ・`д・´)
また、単独でランを行うことから補給も単独でしなければならない。
となれば、しっかり運動中でも食事。お蕎麦うまし(∩´∀`)∩
9月はまだ30℃近く、背中に4Lもの水分を背負う。
ってか感じでやってみたら、無事に7時間くらいで完走('ω')ノ
ただ足の爪は無くなるし、水ぶくれは今まで見たことないような大きさだし( ;∀;)
でも、そのあとのビールの美味さね。今までで一番だった。
ということで、、
45kmが《未知の道》では無くなったことで、もう恐れるものはない。
「東北120kmラン」
を決意する。
※車で100km/ランで120km
ただ東北に行くだけでなく、
「おばあちゃんに自分の足で走って会いに行って
被災地を自分の足で走って心に刻む」
という目標に変わる。
この時、チャレンジの3週間前。
ここからは月間300km近いペースで練習。
がむしゃらだった。
山手線一周を走ろうとも、どんなに朝起きるのがしんどくても
毎朝走って、3部練ペースで練習。
時には、飲み会の翌日に起きるのがしんどいだろうと予期し
「走る格好で飲み会に参加して、そのまま寝る(; ・`д・´)」
ね、確かこの時は3次会しててかなり酔ってたけど、
しっかり翌朝には(二日酔い全開で)10kmテンション高く走ってました。笑
いきなりのハイペースに故障の連続だったけど、
ただひたすら、
「120kmを走ることだけ」
を考えて毎日を過ごす。そんな日々。
ただただ
「走れない距離は無い
届かない夢は無い」
そう呪文を唱え続けて。
そんなこんなで、達成できることしか考えずに、東北に上陸する。
↓↓つづき
走り始めて1ヵ月で東北120km単独走って気づいたこと その2 ~初めての被災地、そしておばあちゃん~ - 現実と夢を繋ぐ瞬間に僕は出会うために